【コラム】産学連携ノート(2)リニアの呪い
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2020年2月14日
機械振興協会経済研究所 特任研究主幹 中島 一郎
1. 連携って何ですか
なんだかんだで20年ほど産学連携に関わってきた。おかげでいろいろな場面に立ち会い、おもしろがって首をつっこんできた。ただ、今もなお、アタマの整理ができないことだらけ。おまけに記憶はあやふやに溶けていくばかり。
いくつもの企業の方たちから相談も受けた。すでに進んでいる連携プロジェクトのトラブル話も少なくなかったが、多くはどこかにいい先生はいないかという相談。
私はマッチングアプリなのか。などと考え込んではいけない。相談されるということは大学に何かの期待を持っているこということだし、その背景になっている、相手先の事情も少しは話してくれる貴重な機会だ。そんな相談をもちかけられるのは、そこそこの信頼もしてくれているということだろう。ここは大切に応対しなければ。
さっそく企業が期待する内容などを聞きたいところだが、その前に少し息を整えよう。
さて、彼らは大学のことをどの程度わかってやって来たのだろうか。
もちろん誰もが若かりし頃にさんざん通っただろうし(どれだけまじめに通ったかは別として)、いろいろな先生たちの講義も聞いてきただろう(どれだけ理解できたかも別として)。こうやって大学まで出かけてくるのは会社の中でのポジションもある人々だろう。理系バックグラウンドの人たちが来ることが多いから、大学の研究室で何が起きているのかもそれなりにわかっているつもりでいるだろう。
ところが。なのだ。学生時代にみていた先生たちの姿を思い浮かべつつ、まあまあこんな感じかなとわかったつもりで研究のつきあいを始めたとする。すぐに、なんだこれは、と違和感を感じることがあるらしいのだ。なんだかおかしいんじゃないか。そこはこうじゃないんじゃないか。ちょっと待ってくれ。
大学や先生たちは世間のことがわかっていない。いい歳をして基本的な大人のルールやマナーがまるでできてない。要するに世間知らずだ。アタマはいいかもしれないが、お行儀は小学生だ。先生たちのこんな振る舞いは会社じゃ金輪際通用しない。だいたい態度がエラそうなんだ。
企業のみなさんは先生に文句を言わない分、マネージャーに苦情をおっしゃる。もうとりなすのがなかなかたいへん。難儀なことだ。こんな時は、たいてい先生たちの方からも泣きやクレームが入っている。両方のことばを直接つないではいけない。混ぜるな、キケン。
確かにエラそうな先生はいるかもしれないし、本当にエラいのかもしれないし、そこはあまり深く考えても出口がない。双方のご不満を聞かされ、お叱りかよ、と思いたくなるキツい言葉もぶつけられるが、まあどちらの言い分ももっともであったりする。こんな火が燃え盛っている時は決してどちらかの肩を持ってはいけない。火にアブラというものである。
それはともかく。
2. 綱引きモデル
なぜ、こうなのか。 ひどい目に遭うたびに考えてみた。この世界の運動はどんな力学で説明できるのか。
両世界はその目指す向きが逆なのだというのがひとつの見方。
新しいものを追求する研究とか開発とか市場開拓とかいった活動は似ているが、これらをひとつの線の上に並べてみるとどうだろうか。知識を追う人たちの運動の向きと、経済を追う人たちの向きとはまったく逆になっているのではないか。そのような考え方のモデルを使えばこの混乱の事態を説明できる。かもしれない。
かたや、それまで知られていない新しい知識をひたすらに求める人々。他方に、市場が歓声をあげて迎える新しいものを夢見て日夜努力する人々。まあ同じものでしょと思ってはそれはダメです。これが実はなかなか水と油だったりなんですよ。そんな説明のモデルだ。
ふたつは相反する方向で綱引きしているわけだから、ふだんはともかく、研究のぎりぎりの場面ではいろいろな破綻が起きる。たとえば、時間も予算ももうなくなってきた、さあどうする、どっちにするんだという緊迫した時はどうか。たぶん両者は衝突してしまう。カネのために研究してるんじゃないといきり立つ先生と、そんなもの何の役に立つんだと怒声をあげる役員さん。線上での向きがたぶん逆なのではないかというのがこの説明モデル。
じゃ、どうするんだ。まあ、できるだけクリティカルなことに陥らないようにドライブしながら、両者のバランスを保つということでしょうか。そんな運転をするには双方がそこそこがまんしてくれないとムリなので、双方からほぼ同等だと認められる存在であると楽にちがいない。企業は組織なので窓口役にも相応の権限があるが、大学は研究者個人の集合体なので、そんなものはまったくない。同等と認められるのは同じ教授会のメンバー。その中で年長組で面倒見のよい人というあたりを探すのが吉か。
3. 線上に並ぶステージ
この力の均衡モデルでは両者の運動は一つの線上で観察できる。これに少しだけ似ているのがもうひとつの線状モデルで、こちらでは研究から上市までの段階が線上に描けると考えている。基礎や原理についての研究、何らかの実用的な応用を意識して進める応用研究、さらに開発、試作などなどの段階を経て市場投入。実際、こうした過程の実際については多くの教科書で解説されている。
それはそれでわかりやすいし、実際に役に立つ説明モデルだと思う。製造業が世界の推進力だった時代には特に効果的ですっきりした説明ができたのだろう。企業は競って中央研究所を作ったり、さらに基礎研究所なども運営したりした。線状の研究ステージの源流をなんとか自分のものにしようとする努力だったのだと思う。この時期、大学はそれらの研究所と接続すればいいわけで、そこで円滑な連携ができたわけだ。なるほど、一本線のリニアモデル、わかりやすくていいじゃないか。
4. なんだか違う気がする
ということで済めば一件落着だが、どうだろうか。
現実に起きていることはこれに当てはめてしっくりくるだろうか。めんどうな事態をこれで解決に向かわせることができそうか。
そもそも、研究から上市までのプロセスが線状の一本道なら、産学がお互いの時間を割いてまで共同作業をせずとも、大学の研究が生み出した成果を企業にバケツリレーで渡してしまえばそれで済んじゃうんじゃないか。
実際、大学の研究成果の一覧を作って公開している組織も公費で立派にできあがっている。企業はそのショーウィンドウを眺めてショッピングすればよい。いくつもの大学を訪ねたり、連携担当とめんどうなやりとりをするより、ずっと効率的だろう。大学研究者の方もそうだろう。人手が乏しく、あれやこれやの雑用にも追われる大学研究者によけいな手間をかけさせることはない。彼ら彼女らにはできるだけ研究に専念してもらえるようにそっとしておけばよい。
研究成果だけを探している企業もあるだろう。知的財産権だけが目当ての企業もいるだろう。ただ、意外にそういう企業に行きあたることは少ない。では、それ以外の企業は何を求めて研究者探しをしているのだろうか。
大学が初期の成果を出し、それをバトンタッチで経済価値を企業が生み出す。そうした一本道の線で描かれるモデルでは説明できないものがありそうだ。できあがった初期的な成果だけが目的なら、さっさとそれを買いたたいて持ち帰ればよいものを、どうもそういうことではなさそうなのはどういうことなのか。
どうも違う。そう感じたならアマノジャクの出番だ。
大学からの技術移転だとか、なんでも知的財産権化だとか、企業マインドの取り込みだとか、果ては大学発スタートアップだとか、この四半世紀のあまたのキャンペーンがどれも的外れだったとしたら。まあ、それは言い過ぎだとしても、なにがしかの違和感があったなという感想を持つ人たちはいるのではないだろうか。
そこには違和感があるけれど、それは企業と大学研究者が連携することの意味を否定するということではない。むしろ、企業と大学研究者が同じ場所と同じ時間を共有して作業することで、両者とも大きな意義を感じてきたとしたら。それはどういうことなのか。
5. 妄想の果て
だんだんめんどうくさくなる。読んでるあなたもそうでしょう。何がいけないのか。
誰かのせいにするともめる。ここはモデルのせいにしよう。線だと信じたのがいけなかった。いろんな本に書かれているから正確だとは限らない。みんなが信じてきたことだから正しいとは限らない。のではないか。ということでどうか。
線、リニア。そうじゃないなら何なんだ。
これまた本にはいろいろ説明がある。めんどうだ。ものぐさな人間はこう考えた。大学と企業は同じ線の上にいない。どこまで行っても交わらない平行線ではない。どこかで交差はしている。ところが相手のことがどうにも理解できない。自分の尺度をあてはめて理解しようとすると相手がバカに思えたり、腹が立ったりする。これは理解しようとする努力が効果を生まない、つまり無効だからだ。ということは、それぞれの線は直交している。
直交している二つの間には内積がない。ないというかゼロ。高校で習うアレである。つまり片方がいくら力んでみたところで取っ掛かりがない。その一方的な力みは相手にはまったく理解されない。
同じ線上にあって向きが逆というのとは違うところに注意しておきたい。これが同じ線上の逆向きの存在ならやり方がある。相手を上回る力でがんばるとか、相手の力を削ぐとか。そんなことで勝つこともできるし、少なくとも均衡までは持ち込める。直交ではそうはいかない。二つは直交軸の上にある。
こんな妄想がわいた。
妄想は妄想に過ぎない、せっかくだから、リニアじゃなくなった二つの間の関係についてもう少し考えを続けていく。
リニアじゃないから二つのうち、どちらが先行しているわけでもない。どちらも自分の軸の上で自由に動いていける。軸の上は自分の世界で、それぞれの論理で動いている。権利も責務も、利害得失も毀誉褒貶も、その軸の中だけで完結している。ただ、このままでは二つはまったくの他人。内積ゼロだから没交渉。相手がどうなろうと知ることはないし、声も届かない。
ここでY=Xの補助線を描く。この補助線はX軸、Y軸、どちらからも見える。これが媒介して二つの軸の間で相互作用を起こすことができる。片方の動きを他方は見ることができるし、その逆もある。補助線上では、双方が同じ方向に動いて増幅しあうこともあるし、逆方向に動いて制動をかけることもある。双方は自分の軸の上に動きを投影、つまり自分の世界に翻訳しながらあれこれ考える。お互いの世界そのものに踏み込むことはないし、踏み込むべくもないが、しっかり相互作用はしている。
ちょいと絵がきれい過ぎる気もするが、企業と大学研究者の連携をこんな相互作用として考えてみたわけだ。どちらもあくまで自由だ。それぞれの世界があり、それはまったく異なるものなのかもしれない。似て非なるものかもしれないし、そもそも原理から違うかもしれない。同類ではない、二つ異世界だからこそ連携の意味が生じる。相互作用が効果を生む。
ということだったとしたら。
いくつかの企業は幹部まで動員して大学研究者たちと真剣にセッションしている現場にずいぶんと立ち会ってきた。機会費用も含めて相当の予算も投入されている。そこで企業が得ているもの、大学研究者が得ているもの。リニアでいうところの初期的な研究成果だとか、研究費だとかだけでは説明がつかない現象がある。そんなもやもやが少しだけ理解可能になるかもしれない。
まあ、それにしても大学のまわりはきっと今も迷走中なのだろう。
【了】
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